ポイズン イン ザ ハート 2
真幸の依存
誰も・・・真幸自身でさえ思いもしない言葉に、反応したのは御幸だけだった。
―聡・・・聡の言う通りだ。もう誤魔化せない・・・自分自身を。何もかも・・・―
涙に濡れた顔で呟いて、先生を見つめた。
しゃがみ込んでいた先生は、御幸の視線に気づくと立ち上がって谷口を呼んだ。
「谷口」
「あ・・はい!」
「御幸に濡れたタオル、持って来てやって。目が少し腫れているから、冷えたのをね」
「冷えた・・・はいっ!」
オウム返しに呟いた三文字の言葉の間に、僅かながら谷口の戸惑いが見えた。
タオルを濡らすくらいなら考える必要もない。
だが先生の要求は、そこに冷たい≠ェ加わる。
それも今すぐに。
谷口は急いでその場を離れた。
―自分のすべきことを考えながら探りながら―
先生はポンポンと御幸の背中を撫でるように叩くと、床に座り込んだままの真幸の前に戻った。
真幸はまだじっと先生を見上げるばかりだった。
先生の視線が真幸に落ちて、席に着くことを促すとばかり思っていたら、静かに語り掛けながら僕たちの周りを歩き始めた。
「真幸、今から散文を朗読するから、よく聞いておくんだよ」
散文の朗読・・・手に資料を持っていないので、朗読は暗唱ということがわかる。
先生の両手が胸の辺りに上がり、指先が軽く閉じられ、吐く息と共にそれは始まった。
暁に翳む林の道
たまゆらに佇みて
虚空を見つめる
名指しで呼ばれた真幸は当然のことながら、御幸もそして僕たちも、驚きの中に怪訝が混じった視線で先生を追った。
姿は見えないのに
息づく気配
お前は 誰?
「・・・先生、それは・・・」
途中、御幸が言葉を挟もうとするも、暗唱は続いた。
後ろの葉陰
横の木の幹
そっと窺うように
付き纏う視線
お前は・・・!
刹那
枝葉を散らして
鳥の羽ばたく音
意識が覚醒する
ああ これは夢
静かな空間に張りのある声が、適度な抑揚を保ちながら響き渡る。
気だるく 髪をかきあげ
憔悴のため息と共に
また同じ言葉を吐く
ああ これは夢・・・
暗唱を終えた先生が真っ直ぐ見据えた先には、顔を強張らせる御幸と、ようやく床から椅子に座り直す真幸がいた。
先生もまた席に戻り改めて二人に向き合ったところで、さっきの御幸の言葉に答えるように話した。
「そうだね、御幸。君が書いた散文だ」
御幸は黙って目を伏せた。
暗唱の途中に御幸が言葉を挟もうとしたのは、それが自分の書いたものだったからだ。
御幸の散文は、深いストレスに喘ぐ苦悩を表現しているかのようだった。
ストレスは繰り返し夢の中で魔物となり、うなされて目が覚め、その度に同じ言葉を吐く。
ああ、これは夢・・・
やがてストレスは現実と夢の狭間で、逃げられない苦悩となって精神を蝕む。
僕はいつの間にかこの散文の中の魔物が自分の病気に置き換えられていて、これが感情移入というのだろう。
気持ちが重なり合って、自然に涙が出た。
押し潰される感情を書くことで吐き出す、その散文こそが御幸の心の痛み・・・。
それから少しして、タオルを調達してきた谷口が戻って来た。
「御幸、ほら、タオル」
受け取った御幸は、そっと目に押し当てた。
「・・・冷たくて、気持ちいい。ありがとう、谷口」
そう呟いて、微笑んだ。
冷えたタオルが、顔の強張りを消してくれたようだった。
「谷口、聡君の分は?」
えっ?・・・僕?
「あっ!ごめん、聡もか!?」
突然の先生の言葉にただでさえ驚いてしまったのに、谷口が謝ってくるのでよけい焦ってしまった。
「いえ!あの!僕はいいです!」
谷口よりも先生に向かって叫んでいた。
が、しかし・・・
「言われたことだけをするなら、流苛と同じだよ。もっと周囲をよく見て、気を配る」
こんな時は、たいてい僕の意見など通った試しはない。
「・・・はい。すみません」
先生から注意を受けてまたタオルを取りに行く谷口の背中を、申し訳ない気持ちいっぱいで見送る羽目になってしまった。
先生は何事もなかったように視線を正面に戻すと、散文の感想を真幸に訊ねた。
「真幸はどう思った?」
「どう・・・よくわかりません。御幸の書くものは、俺には難しすぎるんです。俺は御幸ほど本も読まないし、作文や感想文も苦手だし・・・」
この作文というのが毎日の宿題として必ず書かされるもので、最低原稿用紙1枚の3分の2行。
月曜日が決められた課題で、火曜日から土曜日までは自由課題となる。
御幸は常々、
―僕は数学の方が好きだよ。文系より理数系の方が面倒くさくなくて楽だね―
そんなことを言っていたけど、けして嫌いとか苦手とかの類ではなかった。
自由課題はテーマを考えるのが面倒だからと、ほとんど読書感想文が多かった。
それでも御幸の読書感想文は書き方の手本として、度々全学年の閲覧対象に選ばれるほどだった。
「そうみたいだね。君の作文をいくつか読ませて貰ったけど、四苦八苦の跡がそのまま文面に表れてる」
「・・・毎日一枚はきついです」
真幸はよほど苦手なのか、ほとんど苦情に近い感想を漏らした。
「わかるよ、僕も苦手だった。だけどこのカリキュラムは、無くならないんだなぁ・・・」
苦笑いで同意を示した先生に、僕を除くみんなが一様に驚きの表情を見せた。
もっともみんなが驚いたのは、真幸に同意を示したことではなく僕も苦手だった≠ツまり先生もこの学校の卒業生だったということにあった。
他の先生の中にもこの学校の卒業生はいるとは思うけれど、職員・生徒の名鑑ファイルの履歴欄には最終学歴しか記載されていない。
個人情報保護の観点から、僕たちが確認出来るのはそこまでだった。
僕は和泉から聞いたとき、少しも驚きはなかった。
ああやっぱり・・・そっちの気持ちの方がずっと強かったからかも知れない。
花に溢れたこの学校と、花が大好きな先生のイメージが重なって。
「聡、ほら。気が付かなくて悪かったな」
「・・・ごめんね。いいって言ったのに、先生が・・・」
谷口が冷えたタオルを持って戻って来た。
「気にするな、聡君だからな」
「もう、谷口まで・・・。恥ずかしいよ・・・」
ちらっと渡瀬を見たら、無表情で目を逸らされてしまった。
「冗談だって。それより、先生がこの学校の卒業生って、ちょっと驚きだよなぁ。どう見ても規則に縛られる感じじゃないよな」
ああ、そっちのイメージ・・・それはそれで言い得ている。
谷口は小声で話しながら、僕の横に座った。
「谷口」
「あ!はいっ!」
座った途端呼ばれて、小声で話していたことが聞こえたのではないかと思ったようだった。
ぎくっと谷口の顔が引きつった。
「ああ、座ったままでいいよ。冷えたタオルはどこから持ってきたんだい」
「あ・・・厨房です。棚に新品のタオルがたくさん置いてあったので拝借しました。
冷やすのは冷凍庫の氷を使わせてもらって、氷水で冷やしました」
「おばちゃんに断りもなく?仕方ないな、勝手に厨房に入って中の物を使ってしまったこと、
後でちゃんと報告しておくんだよ。タオルも忘れず洗って返しておくようにね」
「・・・はい。すみません」
ホッとした後に憮然とした顔で返事をする谷口が、何とも気の毒だった。
タオルを頬に当てながら、そっと小声で伝えた。
「谷口・・・?冷たくてとても気持ちいいよ。ありがとう」
「勝手に・・・って、この状況だぞ。賄いのおばさんにいちいち連絡取ってる暇なんてあるか・・・。
ま、言っても無駄だしな。俺は御幸や聡が喜んでくれたらそれでいいよ」
愚痴を零しつつも、最後は谷口らしく割り切った表情で笑顔を見せた。
先生は僕たちがこそこそ話をしていても特別気にするふうもなく、また二人を相手に散文の話に戻っていた。
「御幸、この散文を書いたのは、いつ頃だったか覚えているかい?」
「・・・高二の・・6月か7月頃です」
「うん、君が言っていた・・・何もかもが鬱陶しい″だ。自由課題はほとんど読書感想文しか書かない君がね」
「・・・それは・・・当時の担任の先生にも、聞かれました」
「君は創作だと言ったそうだけど、担任の先生にはその文面から君のSOSが聞こえていたんだよ」
SOS・・・助けて・・・。
ああ、そうだ・・・そうなんだ。
僕たちは絶えずSOSを求めている。
心の奥底で叫びながら、
友に、親に、先生に、誰かに、
本当は気付いて欲しくて。
ダ・レ・カ・タ・ス・ケ・テ
誰か助けて!!
御幸の心の変化に気付いた担任の先生は、カウンセリング室に呼び出して訊ねたが、本人が否定したことで一旦様子を見ることにした。
夏休みを挟み、二学期も半ばになると御幸の行動も落ち着きを見せ始めた。
クラスメイトたちとのトラブルもなくなり、毎日の作文もいつもどおりの読書感想文に戻っていた。
クラスを預かる担任は、毎年生徒を迎え、送り出す。
最も純粋で最も危うい十代の思春期。
彼らと接する中で、教師たちもまた経験を積み学ぶのだ。
心の闇は、波のように満ちては引きを繰り返す。
担任の先生は御幸の散文とその前後の様子の記録を携えて、高等部校医でありカウンセリング専門医でもある川上先生のもとを訪れた。
散文に目を通した川上先生は担任の話と合わせて、今後も加藤御幸への注視は必要と判断した。
今後も
それは三年に進級後も、前担任から現担任に引き継がれた。
「もし君が渡瀬たちの時にタバコを止めていたら、おそらく何事もなく卒業出来ていただろうと思うよ。
だけど再び手を出してしまった。僕たち教師は、今度は見逃さない。君の為に」
「そんなに前から目を付けられていたなんて・・・」
真幸が諦めたようなため息を吐きながら、ぼそっと呟いた。
「先生、ありがとうございます。それから・・・すみません。だから真幸は馬鹿なんです」
真っ直ぐ先生を見つめる御幸の声は、もう涙声ではなかった。
そして相変わらず真幸には厳しい、いつもの御幸だった。
「俺がバカなら、お前は何なんだよ・・・。先生、こいつは俺のことバカにしてるんです。
バカにされてるってわかってるのに、依存なんかするわけないじゃないですか」
真幸はすっかり投げやりの口調になっていて、あれほど驚いていたはずの依存≠ノついてもあっさり打ち消した。
「真幸は御幸にバカにされても、腹は立たないのかい?」
先生の素朴な質問に、真幸は一見して不思議そうに答えた。
「別に。他人にバカにされたら腹立つけど、御幸は身内ですから。
実際勉強は全然敵わないし、俺が御幸に勝ってるのは体格ぐらい・・・御幸に言わせるとウドの大木ですけどね」
確かに真幸はいくら御幸にきつく当たられても、その場の口ゲンカ程度で後々まで尾を引くということはなかった。
「真幸はデリカシー(感覚・感情などのこまやかさ)がないんです。
担任の先生たちは僕を心配して注意を払って下さっていたのに・・・デリカシーがないから、あんなとんちんかんな発言をするんです」
「デリカシー、デリカシーって・・・!俺がどれだけお前のこと心配してたか、
お前だって俺の気持ちなんかわかってねぇじゃねぇか!」
今もまた御幸の辛辣な物言いで、口ゲンカが始まりそうな気配になった。
「十分過ぎるほどわかってるさ」
先生が御幸の代わりに答えたことで真幸は気が削がれたように視線を戻し、御幸もまた黙ったまま前を向いた。
幾度となく繰り返される仕切り直し。
そしてその中で、少しずつ露わになっていく思い。
真幸と御幸、二人の心に抱く思いが。
先生の言葉で。
「以前購買部で、偶然出会ったことがあっただろ?君は聡君が僕を呼んだんじゃないかと疑っているみたいだけど」
「本当は・・・疑っていたわけじゃありません。つい、カッとなって・・・」
申し訳なさそうにちらっと僕の方を見た真幸は、そのまま項垂れた。
「そう、それならいいよ。たぶん聡君もわかっているだろうし・・・谷口もね」
もちろん谷口も僕も、真幸に対する思いは今までと何ら変わらない。
頷くだけで言葉は必要なかった。
「ところで君たち、小さい頃犬飼ってたんだってね」
突然先生の口から出た犬の話に、初めて双子と思わせるほど二人の驚きがシンクロした。
「飼っていましたけど・・・それが何か・・・」
御幸がいち早く答えたものの、質問の意図を計りかねているような口振りだった。
「ご両親が懐かしそうに話していらしたよ」
「両親!?あーぁ・・・。もう、父さんにバレてるんだ。はぁ〜っ・・・」
真幸は両親と聞いた途端、長いため息とともにテーブルに両肘をついて頭を抱えた。
「いつ・・・両親はここへ来たんですか」
遅かれ早かれ、両親には連絡が行く。御幸はむしろ淡々と受け止めていた。
「夏休み前にお越しいただいて、君の担任と僕、それから川上先生にも同席してもらって話をさせてもらったよ。
君の喫煙の確証が得られたからね」
―加藤御幸には、すでに喫煙の嫌疑が挙がっているんだよ―
「歯の裏側についたヤニだよ。君はよく風邪を引いたりして、川上先生の診察を受けていただろう。口の中だ」
喫煙の嫌疑は、喫煙の確証と合致した。
「口の・・・あぁ・・・」
御幸は思わず手で口を押え、そのまま俯いた。
「しょっちゅう咳き込むのも、君の場合は喫煙が大きな要因のひとつだろうと川上先生は言っておられたよ」
「・・・恥ずかしいです。ばれているのに、そうとも知らずのうのうと汚い口を開いて」
「恥ずかしいのは僕たちの方だ。忸怩(じくじ=自分の行いを恥じ入ること)たる思い。
こうなるまで気付かなかったことを、僕たち教師はいつの時もそう思う」
真幸も渡瀬も谷口も僕も、視線は一同に先生を捉えていた。
おそらくここにいる僕たち全員が、この学校の生徒であることの喜びを感じながら。
「先生・・・」
御幸は覚悟を決めた表情で、呟いた言葉の先を見据えた。
「タバコは・・・また吸うようになってからは本数が極端に増えて、一箱で二日持たないほどになっていました。ほぼ毎日のように・・・」
「今は自動販売機やコンビニでも、未成年は買い難くなっているはずだけどね。
それでも手に入れようと思えば、いくらでも手に入る。そうだね、渡瀬」
「はい、その通りです。特にコンビニは年齢確認の甘い店が多かったです」
先生はあえて渡瀬に確認を求めた。
黙って聞いている谷口も、然り。
そうすることで、何度でも自分のしたことに向き合わす。
御幸もはっきりと認めた。
「はい、買うのは簡単でした。吸いたいと思うと浅ましいくらい我慢出来なくなって、その頃には買うことに抵抗すら覚えなくなりました」
「お前・・・一緒に街に出かけてた時も、俺をごまかしてタバコ買ってたのかよ」
もう何を言っても無駄と思ったのか、真幸は呆れた口調で言い捨てた。
その直後、ふうーっと息を吐く音がした。
「双子だけど体格、体力に劣る僕を、真幸はいつも傍にいて庇ってくれていました。今もそうです。
だけど僕にはそれが拘束されているようで、鬱陶しくてたまらなかった」
「・・・・・・」
真幸は事あるごとに御幸からうるさいだの鬱陶しいだのと言われているので、表情は歪めたもののさして反論はしなかった。
御幸もさっき先生が代返したように、自分に対する真幸の気持ちは十分感じている、そんな発言だった。
ここまでは・・・
「ただうるさいだけならいいんです。だけど真幸は、常に自分の視野の中に僕がいないとだめなんです」
今度は、はっきり御幸の口から真幸の依存≠ェ告げられた。
肉親の愛情は、時に内に向かって毒にも変わることがある。
「・・・待てよ、御幸。何で俺がお前にへばりついてなきゃいけないんだ!
俺はお前がいつもひとりぼっちだから一緒にいてやってんだろ!依存とか・・・意味わかんねぇっ!」
真幸には、御幸の言動があまりにも自分勝手に感じたようだった。怒りも露わに、御幸の肩を鷲掴みにして自分の方に向かせた。
「真幸!御幸から手を離して前を向く!」
バンッ!!と、先生がテーブルを叩いて、真幸を制した。
「・・・うっ、俺は友達もたくさんいるし、別に御幸といなくてもいいんだ。
・・・けど、御幸とは兄弟だから・・・家族だから放っておけない。俺、間違ってますか!先生!」
「いや、間違ってないよ」
「じゃあ、それのどこが依存なんですっ!」
「御幸を守ろうとする気持ちが、自分の安心にすり替わってしまっていることかな」
自分の安心にすり替わる
今ひとつ理解出来ていない真幸に、先生は続けた。
「相手を思うが故の行為は、概ね自分の気持ちが勝ってしまうことが多いそうだ。
いつの間にか相手の存在によって自分の存在が成り立つ、そんな関係に陥ってしまう」
「・・・俺が、そうだって言うんですか・・・」
「それをこれから君は理解して行くんだ。川上先生のカウンセリングを受けながらね」
「俺が!?」
僕たちでさえある程度思い及んでいたことに、真幸は驚きの声を上げた。
御幸はそんな混乱の様子を見せる真幸の姿を承知していたかのように、長い睫毛を伏せて静かに語り出した。
「ジャスティン・・・僕たちが飼っていた犬の名前です。
もの心がついた頃にはもう立派な成犬で、金色の毛並が美しいラブラドールでした」
彼らの両親は共働きだったため、二人が寂しくないように用心も兼ねて大型犬を家族の一員として迎え入れた。
ジャスティンと名付けられた犬は、とても大人しく忠実で両親の望んだ通りいつも二人の傍にいた。
双子でも二卵性の二人なので似てはいなかったが、小学校に入る頃には体格にも差が付き始めた。
真幸はどんどん身長が伸び体重も増えるのに対して、御幸は小柄なままだった。
兄弟げんかは当然体の大きい真幸の方が有利だったが、ケンカになりそうになると必ずジャスティンが二人の間に入って来た。
―ジャスティン!だってね、みゆきが先にたたいたんだ!―
―だけどまさきの方が、たくさんたたいたんだよ!ジャスティン!―
ジャスティンは真幸の頬に鼻先を摺り寄せ、次に御幸に体を摺り寄せた。
―・・・ごめんね、みゆき。ほら、おれあやまったよ!ジャスティン!―
―うん・・・ぼくもごめんね、まさき。ジャスティン!ぼくもごめんなさいしたよ!―
金色の毛並が、二人の間で揺れる。
―ジャスティン!おれたち仲直りしたよ!―
―ジャスティン!ぼくたち仲良しだよ!―
そして彼らが十歳の春、別れの時が来た。
―うわあぁんっ!目を開けてよぉ!御幸・・ジャスティンが・・・ジャスティンッ!!―
―ジャスティン!?聞こえる!?聞こえてるよね!?大好きだよ!!ジャスティン!!―
二人の関係に変化が起こり始めたのは、それからだった。
ジャスティンが亡くなって少し経った頃、二人は些細なことからケンカになった。
言い合ううちにエスカレートして、取っ組み合いになってしまった。
今までならそうなる前にジャスティンが上手く二人の間に入っていたので、ケンカをしてもどちらが勝ったとか負けたとかの優劣は非常に曖昧だった。
ところが仲裁役のいなくなった二人のケンカは、はっきり勝負がついた。
体の大きな真幸が、御幸を組み敷いた。
それもあっという間の決着だった。
体格の差は如何ともし難かった。
後にも先にも、御幸が真幸に対して大声を上げて泣いたのはこの時だけだった。
真幸もまたこの日を境に、どれだけ言い合いになっても御幸に手を出すことはしなくなった。
体力的には真幸に敵わなかった御幸だったが、勉強では真幸を上回っていた。
御幸はあの真幸とのケンカで泣いてしまってから以降、ますます勉強に没頭するようになった。
中学は私学を希望した。
何校か選択の結果、全寮制のこの学校を御幸は選んだ。
「僕は・・・やり直したかったんです」
真幸も受験すると言い出した。
両親もクラス担任も、真幸の学力では無理だと引き止めたが、どうしてもと聞かなかった。
受験まで半年、真幸は猛然と勉強を始めた。
二人揃って合格した時には、他の誰よりも真幸自身が驚いていたというのは、入学後何度も本人から聞かされた話だった。
12歳 桜が吹雪く校庭で
真新しい制服の紺色も鮮やかに
高鳴る胸の鼓動と輝く瞳
僕たちは出会ったね
それから幾歳月の春夏秋冬を
共に過ごしただろう
健やかなときも 病めるときも
僕の友達
二人が同じクラスになったのは、最初の中等部一年生の時だけで、そのクラスには谷口と僕もいた。
真幸は誰とでもすぐに打ち解ける気さくな性格から、友達を作るのも早かった。
対照的に御幸はきっちりした性格で、見方に寄れば神経質な面が近寄り難い雰囲気だった。
御幸は休み時間、たいてい一人で本を読んでいた。
僕も本が好きなので声をかけると、嬉しそうな笑顔でタイトルを教えてくれた。
僕たちはすぐ仲良くなった。
―スタディルームで教科書を広げ、レストルームで語り合い、真幸がバスケの試合に出るからと応援にも行った。
そして図書室が閉まるギリギリまで、本を読み耽ったね―
学校生活は楽しかった。
だけど僕が高等部一年の時に病を発症し、入院中の面会も制限される中で心配や寂しさから御幸のイライラは募って行った。
―御幸はいつもお前の見舞いに行きたがってた・・・。
でも病気が深刻な状況にあったから、学年代表一人だけで、他は学校側の許可が下りなかったんだ!
どうして渡瀬なんだよ!!―
小さな事にも八つ当たりのように腹を立て、何人かの気の合う友達ともギクシャクしてしまい、また一人でいることが多くなった。
「でも真幸がいましたから、一人でいても不便なことはありませんでした」
それまで今ひとつ理解出来ず憮然としていた真幸の表情が、ここで一気に崩れた。
真幸は勇んで、御幸を擁護しようとした。
「俺たちは兄弟なんだから当然です!俺は御幸をひと・・・・・・」
ところが真幸の言いかけた途中を、御幸はバッサリ遮った。
「それが僕には耐えられませんでした」
やにわに、周囲の空気が揺れた。
「真幸の過剰な干渉から逃れたいと思っているのに、都合が悪くなると真幸に頼る。
情けなくてどうにもやり切れず・・・父のタバコに手を出していました」
御幸が心の中の毒を、吐き出した瞬間だった。
「それが最たる動機だね」
―動機=すなわち心理的な原因―
「川上先生の見解はね、君の散文の中のお前≠ヘ真幸だろうと。そしてストレスの正体はもう一人、その奥に潜む君自身」
たった一人の生徒の、たった一枚の散文にも、先生方の尽力を惜しまない姿がそこにあった。
「どうして・・・俺は御幸のために・・・」
真幸は怒るよりも、不思議そうに呟いた。
その真幸の呟きに、微かに御幸は眉間を曇らした。
しかし敢えて感情を堪えるように、語り始めの最後を締め括った。
「聡が復学して来ても自分の妬みや情けなさから、怖くて一度は止めたはずのタバコなのに・・・。
気付くと吸っていました。後はもうなし崩しに・・・自分ではコントロール出来ませんでした」
御幸のストレスが真幸の過剰な干渉にあったとしても、それでも僕が御幸を追い込んだことは事実だ。
僕はどうしたらいいのだろう・・・。
繰り返しても見つからない答え・・・口をついて出るのは有り体な言葉だけだった。
「ごめんね、御幸。僕がもっと早く気付いていれば・・・」
「聡、誤解しないで欲しいんだ。・・・渡瀬も、これは僕自身の問題なんだ」
御幸は横の真幸を避けるように少し体をずらしながら、僕の方に顔を向けてはっきりと言った。
「何だよ・・・おかしいだろ。聡や渡瀬のことで散々振り回されていたくせに」
御幸は何度言っても理解しようとしない真幸に、声を荒げた。
「振り回されていたのは僕じゃないって言っただろ、聡や渡瀬の方だ!」
当然売り言葉に買い言葉で、声を荒げたその倍の大声が返ってきた。
「それじゃ俺は何だ!俺はお前の為にいつも一緒にいてやってたのに!
それを依存だとか過剰干渉だとかわけわかんねぇ!何で俺がお前のストレスの原因なんだよ!俺はお前の為に・・・」
尚も真幸が捲くし立てようとした時だった。
思わず目を疑うような、信じられない光景が起こった。
ガターッ!と椅子の倒れる音がして、御幸が真幸に体当たりで突っ掛かった。
「うるさいっ!!僕の為、僕の為って、本当は自分が満足したいだけだっ!!」
「痛ッ・・お前っ・・・!!」
興奮して腰が浮いているところに体ごとぶつかられて、バランスを崩した真幸はテーブルに脇腹を打ち付けた。
「何だってんだよ!!こいつ・・・ちくしょうっ!!」
猛然と体勢を立て直した真幸が、掴み掛かって来る御幸の腰の辺りを持ち上げてそのまま床に押さえつけた。
「真幸っ!やめて!御幸が・・・!」
どう見ても大柄な真幸に小柄な御幸が敵うわけがなかった。
「・・・ちっ、あいつら何やってんだ!」
谷口が止めに入ろうとした時だった。
「谷口!」
僕に注意を促した時と同じイントネーションで、谷口に呼びかける渡瀬の声がした。
「ん?ん・・・」
谷口はちらっと先生の方を見ると、僕を自分の後ろへ押しやった。
「聡、危ないから下がってろ」
先生が二人に近づいていた。
「へっ・・・お前がけんかで俺に勝てるかよ」
馬乗りで押さえ付ける真幸と押さえ付けられる御幸。
あっという間に勝負が着いた。
上と下で、二人の目はまじまじと互いを見ていた。
先に御幸の目がすっと細くなった。
「そらみろ、僕がどんなにきつく言っても、真幸は勝てると思ってる。僕といることで、自分自身の満足が得られるからだ」
ふっと体の力が抜けるように、御幸を押さえ付けていた真幸の手が緩んだ。
「違っ・・・御幸!俺は・・・本当に勉強の出来るお前のことが自慢なんだ。
お前より体が大きくて力が強いだけで、そんな自分が満足とか思ったこともねぇよ。俺、お前が言うようにバカだし・・・」
バシーンッ!!・・・ガツッ!
「この学校に入れるくらいの実力があるくせに!勉強しないだけだろ!
ここなら真幸と離れられると思ったのに!・・・ぅっ、ごほっ・・・」
勝負が着いたと思った兄弟げんかは、まだ着いてはいなかった。
押さえ付けられていた力が緩んだ隙をついて、またしても御幸が真幸に突っ掛った。
しかも今度は力任せの鉄拳が真幸の頬にヒットし、さらに間髪入れず髪の毛を掴んで左右に揺さぶるという過激さだった。
「痛てえぇぇっ!!」
下からぐいぐい髪の毛を引っ張られて、たまらず真幸は前傾姿勢のまま御幸の横にずり落ちた。
「こんの・・・やろうっ!!」
「ぐぅ・・・ごほぉ!ごほ、ごほっ・・・はぁ、はぁ・・・」
御幸が咳き込み始めても、もう真幸に気遣う様子は微塵もなかった。
再び二人の取っ組み合いが始まった。
同じ双子なのに、二卵性とわかっていても体格差がついてしまったことへの劣等感を露わにして、真幸に向かって行く御幸。
真幸はあのけんかの時から、体の大きな自分が御幸を守るという使命感のようなものが芽生えた。
その意識はいつしか過剰干渉に膨らみ、やがてそうすることが自分自身の安心へと繋がっていった。
御幸は途中で気付いていたが、それを言ってしまうことは真幸を傷つける事でありまた自分の中の劣等感をも認めることだった。
御幸の心の中で小さく燻っていた毒は、日常の様々なストレスを養分として膨れ上がり、本当の毒に成り代わった。
「ほら、そこまで」
席を立って二人の傍まで行ったものの、暫く様子を見ていた先生はやっと仲裁に入った。
しかし二人の勢いは、先生のそんな軟な声では到底止まらなかった。
髪の毛を掴まれた真幸が仕返しとばかりに、御幸の腕を捻じり上げた。
「あうっ!!!」
「こら、真幸、腕が折れるだろ」
バシッ!!バシッ!!バシィッ!!
すかさず先生は二度三度、捻じり上げる真幸の腕を叩いた。
「うっ・・うううーっ!!」
真幸は呻き声を上げながらも、御幸の腕を離そうとしなかった。
「ま・さ・き!」
ビシィーッッ!!
凄まじい手刀の威力が真幸の上腕部を打った。
「ふぎゃあああーっ!!」
盛大な悲鳴と共にようやく真幸は腕を離した。
「うぐっ!ごふっ、ごほ・・・まだ勝負は着いちゃいないんだ!真幸っ・・うぅっ・・・」
―僕は・・・やり直したかったんです―
「勝負は引き分けだね、それも立派な決着だよ。御幸も、ほら、けんか両成敗だ」
パンッ!パンッ!バシーッ!!
床に這いつつくばりながらもまだ真幸に向かって行こうとする御幸を、先生はその背中を押さえ付けて尻を叩いた。
もはや二人に、気力と呼べるものは一つも残っていなかった。
真幸も御幸も、共に魂が抜けたような顔で床にへたり込んでいた。
先生は二人の真ん中に立ち、まず真幸に話し掛けた。
「真幸、君は夏休みいっぱいここで補習と川上先生のカウンセリングだ。
ここは謹慎の生徒だけじゃなくて補習を受ける生徒も来るんだよ、聡君みたいにね」
「・・・ここで?俺・・・一人で・・・」
「谷口がいるだろ。花の世話にもしょっちゅう来ているし、勉強でも何でも聞くといいよ。
とにかく真幸は補習を頑張らないと、本当に卒業出来なくなるよ」
「・・・何で俺、この学校受かっちゃたんだろ・・・うっ・・うぅ・・・俺、俺っ・・・もういやだぁー!!うああああんっ・・・!!」
真幸は床に転がって、大声で泣いた。
「御幸、君は医務室に入院してしっかり体を治す。
担当は川上先生だから、カウンセリングと禁煙指導も治療内容に入っているからね」
「・・・はい」
素直に返事をする御幸に先生は軽く頷いて、心配しているであろう両親のことを話して聞かせた。
「君たちのご両親が言っておられたよ」
―先生、息子の犯した罪は親として叱らなければいけませんが、
そこに追いやった罪は、親として共に息子の更生に寄り添わねばなりません―
―学校から連絡を受けて、私は夫と何度も話し合いをしました。
話し合いを重ねるうち、私たちは仕事の忙しさを理由に、随分長い間あの子たちと対話をしていないことに気付きました―
―昔ジャスティンという犬を飼っていたのですが、ジャスティンは私たち夫婦より、
ずっと息子たちを良く知り守ってくれていたのではないかと、そんなことも話し合う中で思い出しました―
「ジャスティン・・・」
まるでそこにいるように、御幸はその名を呼んだ。
「お父さんはね、タバコをやめるそうだよ」
―どうか御幸に、父さんも努力するから頑張れと、伝えてやってください―
ぱたぱたと御幸の頬を伝って落ちた涙の雫が、床に二つの溜まりを作った。
先生が御幸と話している間に、床に転がって泣いている真幸のところには谷口がいた。
二人の全ての状況が出尽くし処遇も決まった今、ここは傍に行ってやるべきと判断したようだった。
「真幸、お前本当に落第スレスレだったんだな」
谷口は真幸の体の上に跨って、腰を下ろした。
「谷口ぃ・・・俺、マジで勉強わかんね・・・ぐす、ぐすっ・・・ずっと・・ついてくだけで必死だった・・・ひぃっく・・・」
「そうか、お前なりに必死だったんだな。じゃ、仕方ねぇな。まっ、落第しても聡がいるから良かったな」
「うえぇぇ・・・いやだあぁぁっ!!落第いやだあぁぁっ!!」
「・・っ、でかい声を出すな!とりあえず今まで何とかついて来れたんだから、あと半年くらい死ぬ気で勉強しろ」
「うっ、うっ・・・死ぬ気で勉強したら、卒業出来るかな・・・」
「出来たらいいな」
「うわああああんっ・・・!!」
「・・・こいつ?幼児返りか?ガン泣きしてんじゃねぇよ・・・ったく!冗談だろうが!泣くな!中坊でもそんなに泣かねぇぞ!」
手荒な谷口の励ましが、よけい真幸との仲の良さを感じさせた。
「御幸、君はひとりで川上先生のところへ行けるね」
「はい」
小さな声ではあったけれど、迷いのない返事だった。
二つの溜まりの前に伏せっていた長い睫毛の瞳が、はっきりとした意思を示すように先生を見上げた。
「ああ、そうだ。もうひとつ、君たちの名前のことだけどね・・・」
―息子たちの名前は、妻が名付けました。二卵性なので外観や体格に差が生じても、
それは互いの個性と受け止め、尊重し合いながら人生の道(御幸)を恙無く(真幸)歩んで欲しいと―
「やり直せたかい」
先生の問い掛けに、御幸は少しはにかみつつも微笑みを浮かべた。
花屋の小さな入口から続く道の先には、先生の宿舎がある。
花に囲まれた静かな世界
しかしけして穏やかな時ばかりではなく
時に激しく時に辛く
人生の縮図がそこにある
間口から差し込む夕陽の輝きを背に、蒼白の顔を真直ぐ前に向けて足を踏み入れた御幸と、花びらを蹴散らしてやって来た真幸。
夕食にはもう程遠い時間が過ぎて、ようやく二人の長い一日の幕が下りようとしていた。
「それじゃ谷口、後を頼んだよ」
先生はそう告げると、谷口がトゲで指を刺された鉢花を大事そうに抱えて部屋を出て行った。
「はい、はい。わかってたけどな・・・」
まだ真幸の体の上に跨ったまま、谷口は先生がいなくなったところで諦めたように愚痴を零した。
「聡、行こうか」
渡瀬も先生に続いて出口に向かった。
「ごめんね、渡瀬。僕も谷口とここに残るよ」
「御幸だろ。大丈夫、あいつはそんな軟な奴じゃない」
「そうかも知れないけど!・・・僕が御幸を追い詰めたのも事実なんだ」
「御幸は自分自身の問題だって言っていただろ。
聡がいつまでもそんなことを言っていたら、今度は御幸が聡を追い詰めたって思うぞ」
「そんなこと・・・それじゃ僕はどうしたらいいの・・・」
―僕はどうしたらいいのだろう・・・―
繰り返しても見つからなかった答えを、渡瀬が教えてくれた。
「今のままでいいのさ。御幸と友達のままで」
「・・・おい?渡瀬!?お前どこへ行くんだ!?まさか帰る気じゃねぇだろうな!」
帰ろうとする渡瀬に気付いた谷口が、慌てて呼び止めた。
「先生はお前に任せたんだ。任された者が先生の後始末をするんじゃなかったのか。
確か、いつもそうだったよな?じゃ、そういうことで俺と聡は帰る、頑張れよ」
「冗談だろ!?ちょっ・・待てよ!渡瀬っ!俺ひとりでここ・・・!!」
「谷口ぃ・・・重いぃ・・・苦しいぃ・・・」
「やかましい!少しくらい我慢しろ!いいか!お前も一緒にここ片付けるんだぞ!」
八つ当たりさながらにバシバシ体のそこら中を叩かれた真幸は、また大声を上げて泣いた。
「痛いぃっ!!痛てぇよぉぉっ!!谷口が叩いたあぁっ!!うぎゃぁあああんっ!!」
「うわっ、こいつ完全に幼児返りしてやがる・・・御幸!真幸を何とかしてくれ!」
渡瀬に腕を引っ張られながら部屋を出る最後に見た光景は、御幸がゆっくり立ち上がって真幸の方に歩み寄る姿だった。
―ジャスティン!おれたち仲直りしたよ!―
―ジャスティン!ぼくたち仲良しだよ!―
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